前回、記事にしたお寺カフェでは菩提心の話しをする機会がありました。

仏教では「慈悲」を大切にしますが、チベット密教ではとくに「菩提心」を大切にします。

ここで「慈悲(じひ)」と「菩提心(ぼだいしん)」とはどう違うのでしょうか。

 

私のイメージではこんな感じでしょうか。

たとえば、温かい油を循環させてお部屋をじんわり温めるデロンギヒーターのように、いつの間にか心地よい快適空間になっているのが慈悲のイメージ。

 

 

一方で、薪ストーブに薪をくべるとどんどん熱くなって部屋が暖かくなっていきます。

薪をさらにくべていくと、部屋は暑くなるので窓を開けます。

すると部屋の外まで熱気が出ていって外まで暖かくなりそうです。

ストーブのなかは高温なのでみんなが使う陶器を焼くこともできそうです。(焼けないって?)

とても積極性あふれる菩提心のイメージ。

 

チベット仏教では心の変容のために菩提心の修行を生涯かけて行います。

ダライ・ラマ十四世は80才を過ぎてもこの修業を続けているそうです。

一度でも彼の話している姿を見たことのある人はその溢れでるパワーに強い印象を受けます。

 

彼の勧めるのは「七つの因果の教誡」と「自他は平等とみなし、交換する瞑想法」です。

その二つを統合したやり方をご紹介します。あいだに私なりの解説をはさみます。

 

菩提心をおこす際には、まず自分と同じように他の衆生も、等しく幸福を望み、不幸を避けることを願っている事実を思い起こす必要があります。

唯一の違いは、自分がたった1人であるのに対して、他の衆生は無数に存在することだけです。

言い換えれば、自分は少数派、他の衆生は多数派なのです。

そこで自分と他の衆生とどちらが大切な存在かを考えてください。

 

圧倒的多数の幸福のために1人が苦しむならば、その苦しみは価値あるものといえますが、1人のために圧倒的多数が苦しむのは釣り合いの取れぬ話です。

また私たちは衆生に依存して生きており、衆生なしでは現在、過去、未来を問わず幸福など得られないのです。

とすると他の生きものの幸福や利益をもっと考えたほうが、最終的には私たちの利益に結びつくはずです。

このように考えていくと、自分よりも他の衆生のほうが大切であり、自分の運命は他の衆生にかかっていることがわかるはずです。

出典:『ダライ・ラマ 日々の瞑想』講談社、訳 三浦順子、1999.10発行

以下、出典は同じです。

 

人はなにもせずにいると、自分や自分の周りのごくわずかな人のことだけが大切になってしまいます。

だから、自分から積極的に他の人や生きもののことを想像してみましょう。ということ。

 

(1) まず平等心を養います。親しい人には愛着を、敵には苦しみを、親しくなく敵でもないという人には無関心という態度は捨てて、生きとし生けるものに分け隔てない平等な心を向けるのです。

 

まず、敵はなぜ敵になるのでしょうか。

それは「私」や「私の大事な人や物」を傷つけたり怖がらせたりするから敵なんですね。

一方で、親しい人っていうのは「私」と仲のいい人とか理解してくれる人とか好きな人などです。

どちらでもない人は「私」があまり興味のない人だったり、よく知らない人だったりします。

要するに、誰が大事かどうかは「私」が自己中心的に決めているだけですよね。

自己中心的なものさしをいったん脇においたとき、すべての生きとし生けるものは幸せを願うものとして、皆が同じ立場にあることがわかります。ということ。

 

(2) 次にすべての衆生が今生あるいは過去生で自分の母親であったことを認識します。

〔中略〕私たちは無始の過去より今にいたるまで数限りなく転生を続けてきており、いかなる衆生もいずれかの私の生において私の母であったことがあるはずなのです。

ここで仏教では無限の回数を生まれ変わり死に変わりしていると見るので、すべての生きものが自分の母親であった可能性があると考えるのです。

 

(3) そのうえで過去世の母であった衆生の恩を想起します。

さらに過去世において父親や親しい身内、親友であった衆生の恩を想い起こし、彼らに対して計り知れない恩を負っていると感じます。

相手からどれだけの時間や手間ひまをかけてもらったか、具体的に想像してみましょう。

もしも母と不仲だという人は、まず母でない親しい間柄をイメージしてみましょう。